宇宙スープ

Once upon a time, the Universe expanded from an extremely dense and hot soup

鳥を識る批評ー進化論の真髄が少しわかる批評

 

鳥を識る: なぜ鳥と人間は似ているのか

鳥を識る: なぜ鳥と人間は似ているのか

 

 鳥類全般に共通する行動原理を知りたくて、「鳥を識る」で入門を果たした。鳥の生態について、ティンバーゲン的に言うと、至近要因と究極要因からの説明が充実していて、驚きの事実も散りばめられており、とてもおもしろかったと思う一方、つっこみどころが多すぎて批評を書く手をとめられなかった。

ひとつひとつ私の意見もふまえて指摘していきたい。

恐竜が絶滅し、翼竜も絶滅した空にコウモリが進出して、夜の世界を中心に大きな勢力となりましたが、コウモリの呼吸法は一般的な哺乳類と同じで、鳥類よりも優れているわけではありません。もちろん、数千メートルの高高度も飛行できません。この先、コウモリががんばって進化して、さらなる大繁栄をすることがあったとしても、こうした資質で大きく差をつけられているために、空のシェアをとりから奪う事はおそらくないでしょう。

まずは第2章、鳥類と哺乳類の呼吸法を比較しているところでコウモリは大したことないと言っているところだが、
free-tailed batとよばれるコウモリはなんと高度3000mで飛ぶという圧巻のパフォーマンスを披露する!*1

https://academic.oup.com/jmammal/article-abstract/54/4/807/844057?redirectedFrom=fulltext

ここでの趣旨は鳥類の方が哺乳類よりも呼吸効率がいいということで、それはおそらくそうなのだろうが、コウモリが「数千メートルの高高度も飛行できません」というのは間違っているので指摘せざるをえない。おそらくこのコウモリよりも飛ぶのが下手な飛翔性の鳥もいるだろう。

だとしたら、生き延びた種と絶滅した種を隔てたのは、何だったのでしょうか?その理由として最初に指摘されるのが当時の鳥類と哺乳類の平均的な体のサイズと繁殖スピードです。

次も同じく第2章、大絶滅時代に恐竜は滅びたが哺乳類と鳥類はかろうじて生き残った、その差を分けたのはなにかというミステリーに言及する箇所。

体のサイズが小さいことは激変する環境への適応に有利だ。その理屈はr/K淘汰として説明できる。過酷な自然環境を生き抜くのに重要な要素は、個体数が多いことである。数が多いとそれだけで絶滅をまぬがれる確率が高くなるし、環境に適応する者が出現する確率も高くなるだろう。そのため多産で、早熟であることが非常に有利となる。そして、限られた資源のもとで数を増やすためには、体の大きさを小さくせざるをえないというわけだ。

隕石や火山による劇的な気候変動を生き残るためにそれが重要だったという考えは私と同じだが、なぜ「平均的なサイズ」が重要なのだろうか?鳥は空をとぶために小型化したので平均的に鳥類は小さかったというのはおそらく正しいが、それは鳥類は小型の恐竜から分岐したということの裏返しでもある。われわれは通常恐竜というと巨大なものをイメージするが、小型の恐竜もたくさんいたはずだ。ここでの議論で「平均的なサイズ」を持ち出すのは、巨大な恐竜が小型恐竜のあしをひっぱって道連れに絶滅させた、というおかしな主張にきこえる。

この説明では、鳥類、哺乳類、恐竜の命運を分けたものがなにかという根本的な問いにはかすりもしていない。

これは1つの仮定ー想像ですが鳥の祖先の恐竜が、何らかの要因から、ものをうまく握ることができる手や指、抱きしめることのできる柔軟な腕を先に身に付けていたとしたら、人間が手を手放したいとは思わないように、彼らはその便利な手を翼にしようとは思わなかったのではないでしょうか。

第3章、飛翔の進化にせまる章であげられている一文。

ただの想像だというのはわかるのだが、 この一文を読むと、著者は自然淘汰の威力をあまりわかっていないのではないかと思えてしまう。鳥の翼はわれわれから見ると、ものすごく優れた発明に思えるが、ダチョウ、キウイ、ペンギンなどいとも簡単に”飛ぶため”の翼を捨ててしまった鳥はたくさんいる。鳥が簡単に飛行能力を捨てられるのだから、手や指についてもそうできるだろう。一応私たちの腕も、数億年前は泳ぐためのヒレだったのだから。

動物の心臓が一生の間にうつ総数は一定で、心拍数の少ない動物ほど長生きと、「ゾウの時間 ネズミの時間」などでは示されていましたが、それは基本的に哺乳類に限ってのことで、鳥類には当てはまりません。

こういった断定口調にあやしさを感じたので念のため調べてみたが、鳥類の代謝率と長寿のアロメトリーを調べ直した論文がすぐ見つかった(見つかるまでにかかった時間5秒)。

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2527636/

この論文では、当初鳥類ではアロメトリーが成り立たないと思われていたが、調査対象母数が少なかったので増やしてみたら見事な相関が見つかったとある。

生き延びると言うことに関して、動物は極めて利己的です。特に体の小さな鳥にとって利己心は不可欠と言って良いもので、猛禽類や肉食哺乳類に襲われた場合、自分以外の群れの誰かが犠牲になってくれれば自分が助かると言う意識を持つのも、鳥にとってごく自然なことです。サイズが近く、食性が近い異なる種が混群を作るのも、大勢でいれば自分が殺される確率が減らせると言う意識がうちにあればこそです。

群れが敵に襲われたとき、(つがい相手以外の)誰かが犠牲になることで自分が助かれば良いと考えるように、鳥は自己中心の思考をします。エゴイスティックではありますが、それが生物の本質でもあります。

第5章、このあたりから個人的にかなり反論したいことが多く、読み進めるほど不機嫌になってしまった。

まず、動物は極めて利己的という主張。
(あたかも人間は利己的ではないという含意も感じるが)私は著者がドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んでいないか誤読していると疑っているが、とりあえずその話はあとでするとして、ここでは「大勢でいれば自分が殺される確率が減らせる」という論理にかみつきたい。

これは本当にそうなのか?すんなり受け入れられそうにも思えるが、疑ってかかるべき類のものだ。

仮にある鳥Aをメインに捕食する肉食動物Bがいるとしよう。肉食動物Bが一定の数存在し、その個体を養うだけの鳥Aが犠牲になると考えると、大勢でいるだけで殺される確率が減るということはない。大勢でいれば、一度の狩りで犠牲になる確率は低いかもしれないが、その半面大群でいるがゆえに敵の目をひきつけやすいのだとすると、狩りの回数、狙われる回数が増えるので、結果的に殺される確率はかわらない。むしろ、Aの大群がBにとって格好の標的になったら、おなかいっぱいになるまで狩られることになり、全体としての死亡率は上がるかもしれない。

動物が大群でいるのには、大群でいるだけの理由がある。その理由は種によってさまざまだろうが、天敵とたたかうという観点で言うと、興味深い例を見たことがある。
ある動物ドキュメンタリー番組の一節だったが、おなかをすかせたアシカが魚の大群を追い込み、群れにつっこんでいくのだが、魚の群れ全体が調和をなして急激に方向転換する様子に目がくらみ、結局一匹もつかまえられないまま狩りをあきらめたのだった!あのアシカが!魚を目前にして!
グループが調和を保って行動すると、ハンターは狙いを定めにくいのだという。

つまり、大群でいることによって、一個体はなんらかの利益を得られるのである。だから鳥や哺乳類の中には群れをつくるものがいる。彼らは群れを維持するために、いろんな努力をする。その中には互恵的利他主義とよばれる目を見張るやさしさを見せる種もいる。

さて、「大勢でいれば自分が殺される確率が減らせるか」という問いに私なら「YES」とこたえる。これそのものは実は著者の主張と同じなのだが、なぜそう思うのか、の背景にあるものが全く逆なのだ。わたしはあくまでも、群れる動物は互いになんらかの協力関係にあるからこそ、生存確率を高めることができていると思っている。著者は、「なぜ群れるのか」の問いに「自分以外の群れの誰かが犠牲になってくれれば自分が助かるから」というこたえをあげているが、これが理由になるのだったら、「別に群れなくても、目立たないようにしていて誰かが犠牲になれば自分は助かる」というこたえもまっとうな理由になる。
極端なことをいうと、もしわたしが、「自分以外の誰かが犠牲になればOK」という考えの持ち主なら、スキを見てとなりにいる人を羽交い締めにして敵に差し出す。しかし考えてみてほしいのだが、そういうことが横行するグループで果たしてそれでも群れでいなければいけない必然性があるのだろうか?虎視眈々と相手をだしぬくことしか頭にない利己的な集団は、危険すぎて集団を形成できない(天敵と群れを作ってるようなもの!)。単独行動してたほうがマシだ。そう考えると、著者の「群れ」に対する見解は、「なぜ群れるのか」という本質にまったくせまれていないと言える。

人間的と感動する一方で、我が身を犠牲にしかねないこうした行動をどう受け止めたらいいのか理解に悩むかもしれません。その際は、こうした例を、「次善の策」と考えるとわかりやすいように思います。自分の遺伝子を残すのがいちばんであるものの、どうしてもそれができないときは近い遺伝子を残し、それすらかなわない時は同種の誰かが生き延びるようにする。

同じく第5章、ここの文章は鳥類に見られる「擬傷」とよばれるおもしろい行動の説明のあとに出てきたものだ。擬傷(ぎしょう)というのは、子育て中の鳥の巣の近くに肉食動物が近寄ってきたときに、親鳥があたかも怪我をしたようなフリをして、肉食動物の興味をひきつけ、巣から十分離れたところにまでおびき寄せてから、さっと逃げてしまうという自然界の一幕の話である。実際にこの習性をもつ鳥がいるのだから驚きだ。。

自分が危険をおかして子どもを守るというヒーローのような行動は、進化生物学者の間でもたしかに問題となっていたようだ。しかし、「次善の策」という考えは全く筋が通らない。もし本当に自分の遺伝子を残すのがいちばんなのだったら、なぜダチョウなどの鳥は、捕食者が近づいてきたときに子どもだけ残してさっさと逃げてしまわないのか?「次善の策」の理屈で考えれば当然そうなる。

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子」を読めば、自然淘汰のメカニズムがそうシンプルではないことがよくわかる。多くの人は、このベストセラーのタイトルだけ見て、「動物は自分の遺伝子のコピーを残すように利己的に行動する」のだと思うかもしれない。それがそうでもないことを懇切丁寧に教えてくれるのがドーキンスのこの著書だ。もし、自分の遺伝子のコピーを残すことが至上命題なのだったら、有性生殖という仕組み自体がまったく理にかなっていない。有性生殖(つまりオスとメスが交配してこどもを作るしくみ)で子どもに伝わる遺伝子はたったの50%しかない。それに対して無性生殖では100%。まさに自分のクローンを作り出す生物はたくさんいる。そこでドーキンスは、「遺伝子とはなにか?」という深淵な問題に立ち向かっていくわけだ。その後の論理展開は、私が知る中でこの世でもっともおもしろい知の探求のストーリーとなるのだが。。

私はぜひ多くの人に利己的な遺伝子を我慢強く読み解いてほしいと思っているが、その話はここまでにしよう。ここで声高に言っておかなければいけないことは、「遺伝子が利己的であるがゆえに、個体(動物)が利他的になる」という事実である。

「次善の策」という説明はドーキンスの劣化版にすらならないどころか、彼のメッセージをねじ曲げてさえいる。 

一方、哺乳類では、発声学習するのは、人間と、イルカクジラの仲間、鯨類のみです

 ここから第6章だが、個々にはおもしろい事例も多いのだが、章全体の方向性がかなり迷走してるように感じる。

鳥類の特筆すべき能力の一つ、発声学習について掘り下げたところで、哺乳類では人間と鯨類しか発声学習しないと主張しているのだが、事例を知らないだけのように思える。
近年、動物がとても豊かな感情、知性を持っていて、豊かにコミュニケーションとっているということが認知されつつある。フランス・ドゥ・ヴァールに代表される学者らの功績によって。そうした背景にあって、人間しか言葉をしゃべらないという動物学者はもういないだろう。いくつもの動物の「言葉」が明らかになりつつある。

私が知るところでは、ベルベットモンキーの警戒音の研究がもっとも有名な、「動物も言葉をもっていること」を証明した研究だ。ベルベットモンキーは、「ヒョウ」、「ヘビ」、「ワシ」といった、タイプ別捕食動物それぞれに対応する警戒音を発していた。誰かが「ヒョウ音」をならすと木に登って避難し、「ワシ音」をならすと空を見上げる、といった具合に。これらの「音」と「自然界の対象物」の結びつきを、遺伝的に生まれもっているというのは考えにくい。実際、こどものベルベットモンキーは大人が発した警戒音に対してしばしば間違った行動をとることがあったという。ということは、どう考えても、ベルベットモンキーは発声を学習している。

人間と鯨類しか持たない発声学習とは、ベルベットモンキーのそれと、本質的に何が異なるのか著者に問いたい。もちろん程度の差があることはわかるが。

哺乳類には理解しがたい鳥類の選択

人間だけが理解できた鳥類の選択

一般的な哺乳類では、それが好きか嫌いかなどを考えたりしないような対象や状態に、人間や鳥は引っかかり、「好きか嫌いか」「これとこれならどちらがいいか」と判断する心を持っていました。

 同じく6章のタイトルや文中からの引用で、あたかも人間と鳥類だけが審美眼を持っていて、それ以外の哺乳類は持っていないと言いたいそうな謎の自信である。人間以外の哺乳類をそこまで軽視するのはなぜなのか。

おそらく著者は、次で説明するように、性淘汰という原理が、鳥類と人類にだけはたらいていると思っているのかもしれない。

しかし、鳥が鮮やかである理由の全てを性淘汰で説明することはできません。なぜなら、インコやハチドリなど、熱帯や亜熱帯に生息する鳥を中心に、オス・メスともに派手な羽毛をしているものが数多くいるからです。

 前の引用にも関連して、ここでテーマとなるのは、鳥類の「性淘汰」についてである。性淘汰について簡単に説明すると、
ある動物グループのメスの多くが何らかの理由で、尾が長いオスを好むようになったとする。すると、「尾が長いオス」が子孫を残しやすくなる。彼らの子孫は遺伝的に「尾が長い」であったり、「尾が長いことを好む」傾向が出てきて、一気に進化のポジティブ・フィードバックがはたらき、メスの好みによって形質の進化がおこるという理論である。

ダーウィンが、クジャクの羽根の進化をなんとか説明するために、やむなしで生み出したのが性淘汰理論のはじまりだったが、ダーウィンの死後、長らく進化生物学の表舞台からは消えていた。ところが近年、性淘汰の理論的可能性が検討されはじめたり、それがはたらいたとしか思えないような事実が見つかったこともあって、私も内心、性淘汰は進化論のかなり大きな部分を占めているメカニズムだと思うようになった。特に鳥類の進化においては、性淘汰ぬきには語れそうにない。本書の著者もそう思ってるだろう。

だが、著者は「性的二型(つまり、オスとメスの見た目が著しく異なること)をもつ種だけが、性淘汰の影響下にある」と思っている点が私の考えと異なる。前述の性淘汰の原則に沿って考えれば、メスのオスへの好みが「自分自身の外見と著しく異なっていること」である必要はないように思える。逆に、「自分の外見となるべく同じような異性を好きになる」性淘汰もあるだろう。ゴリラ / チンパンジー / ヒトの順に、性的二型が緩和されていく流れも、性淘汰の範疇にある気がしている。これはとりわけ、オスとメスが協力して子育てをしなければいけない、といった事情と関係しているかもしれない。

鳥類と人類にだけピンポイントに性淘汰がはたらいている、そしてそれは彼らだけが審美眼を持っていたからだ、という演繹的な主張は、時代錯誤の「人類至上主義」ならぬ「人類および鳥類至上主義」のように思えてならない。マンドリルの顔やおしりがあれほどまでに鮮やかなのはどう説明するつもりなのか?

鳥が、本来よりもずっと低く見られてきたのは、人間の矜持から来る、ある種のおごりと、人間基準の物差しだけで鳥を評価してきたことが大きく影響しています。自身を万物の霊長と呼び

ここから鳥の知性にせまる第7章。

この引用では、その前段で、鳥の知性がかつて非常に軽視されていたという嘆きにつづいている。鳥を解剖したところ、しわのない脳が出てきたことから、哺乳類脳ばかりを見てきた従来の学者は「取るに足らない知性の持ち主」と判断したらしい。それについて、これは人間のおごりだとして、強くいましめるメッセージが続くのだが、この著者は過去の人間の失敗を自分のこととして捉えて、次に自分がどういう立場をとるべきか熟考していないように思う。

典型的な例として、「脳のしわの数で知性を判断するな!」という厳しい叱咤の直後に、あろうことか動物ごとの脳のサイズの比べっこをしていて、グラフまでのせている。あたかも、「鳥類は脳のサイズが大きいから哺乳類よりも頭がいい」と言わんばかりの。「体重に対する脳重量の比率で知性がわかる」という主張は、「脳のしわの数を見て知性がわかる」と言ってるのと大差ない(たしかな根拠がない限りは)。そんなものの妥当性は、近い将来の研究で棄却されることは私の目には見えてる。

鳥のさえずりは伴侶を得るためか、縄張りの主張のためのもの。とにかく声を出し続けることに必死で、楽しむ余裕などないからです。多くの鳥は、人間のように歌うことを楽しんだり、自分の歌声に酔う事は基本的にしないと考えてください。

第8章は鳥の心について。

ここでもとくになんの根拠も示さず、「鳥は楽しんだりしない」と断言的に書いているのだが、これによって読者になにを伝えたいのか理解に苦しむ。(実際、鳥たちが楽しんでるようにしか思えない事例をいくつも著者自身が本書で提示している。)

ライオン、トラ、キツネなどの赤ちゃんが、兄弟たちと四六時中狩りごっこをしてるのをドキュメンタリー番組でよく見るが、私には楽しそうやなーという感想以外のものが出てこない。狩りごっこが楽しくてしかたないんだろう。
わたしたちが、「おいしい」と思うから「食べる」ように、「楽しい」と思うから「遊ぶ」し、「練習する」。これと同じメカニズムが人間にあって、動物にはないという考えはあまりにもナンセンスで、進化論を否定しないかぎりそんな結論は出せようがない。

ゴクラクチョウ科の鳥には誰も見てないのにダンスを踊るものがいる。求愛の練習をしてるにしても、ひとりで楽しくなっちゃってるんじゃないだろうか。下手すると求愛相手のことを想像してウキウキしてさえいるかも。
これらの例は憶測にすぎないにしても、昨今の動物心理研究の動向を見れば、あきらかに動物が心をもっているとしか思えないような事例が次々と見つかる流れにある。動物の心や知性をテーマにしたまとめ本として超絶おすすめできるのは、「数をかぞえるクマ、サーフィンするヤギ」だ。写真もたくさんのっていて最高にいやされる。

鳥は文明をのぞまない

鳥を含む人間以外の動物は、ほどほどで満足しました。でも、人間は満足せず、さらに楽や便利の先を求めた。

最後に、道具をつかう鳥類の行動に言及した直後の謎の断言。

動物が道具を使っていることがわかっている時点で、文明をのぞんでいる、文明へと向かう途上にいるという発想はできないのだろうか。キツツキフィンチ、カラス、シャカイハタオリ、ツカツクリ、...などといった鳥類はあきらかに、延長された表現型として、自然を克服しようとする一歩目を踏み出している。それが分かっていないことこそ、人間中心の思考からはなたれていないことの証左のように私には思える。

 

いろいろと書いたあとでこういうのもなんだが、それでも本書はおすすめできる。客観的に書かれている箇所はかなりおもしろいので。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 
数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ―動物の知性と感情をめぐる驚くべき物語

数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ―動物の知性と感情をめぐる驚くべき物語

 

*1:Williams, T. C.; Ireland, L. C.; Williams, J. M. (1973). "High Altitude Flights of the Free-Tailed Bat, Tadarida brasiliensis, Observed with Radar". Journal of Mammalogy. 54 (4): 807.

罪は憎むもの、人は憎まぬもの

善悪に対するわたしの考えは自分で言うのもあれだけどとってもピュアだ。
「"罪"を憎んで人を憎まず」
「みんな違ってみんないい」
の2つでほぼ言い表せる。

このコメントを見ておもしろいなと思うのは、結論は千坂さんと全く同じなのに、その表現の解釈が全く逆になることだ。

わたしの感覚だと、「罪」を徹底的に憎まなければ、「その精神的あるいは社会的な背景を調べ、問う」ことはできない。憎むべき対象が「その人」なのだったら、とりあえずめんどうだからこの犯人を罰したらよくない?で終わる。「罪」を徹底的に憎むからこそ、その人を罰するに留まらない恒久的な対策への衝動が生まれる。

とは言え、わたしはこのコメントを見るまで気付かなかったが、たしかに「罪を憎んで人を憎まず」という言葉はあいまいな言葉に聞こえる。特に「憎む」と「人」が何を指すのか人によって解釈がかわりそうだ。

たとえば、「憎むべきもの」を「あってはならないこと」とおきかえる。
そう考えれば、「あってはならない」のは、罪である「行為」の方である。「人」はあっていい。「行為」の対照となるのは、行為を生み出す人間の属性、すなわち「形質、性質、特徴」のようなものである。
つまり、「”行為”を憎んで”特徴”を憎まず」があるべきものだと思う。

「形質、性質、特徴」は、極論すればヒトのDNAである。
遺伝子配列それ自体に、善も悪もあるだろうか?憎むべきものとそうでないものがあるのか?存在していいものとだめなものがあるのか?生まれか育ちかの議論はここでは関係ない。いずれにしても、ある特徴をもつに至る過程は運命に依存する。

「形質、性質、特徴」は、それ自体に善悪があるはずがない。「行為」となって表に現れてはじめて、(少なくとも主観的には)善悪の概念を帯びてくる。当然ながら、同じ「形質、性質、特徴」を持った人が善悪的に正反対の「行為」をおこなうこともある。
そうである以上、憎まれるべきものはあくまで「行為」の方である。*1
「人を憎め」というのは、場合によっては「生まれたばかりの赤ん坊を憎め」ということでもある。そんなことできます?

わたしは今のところ死刑制度廃止論者ではない。
人を憎まずに死刑賛成というのは矛盾していると思われるかもしれないが、わたしはたぶん刑罰を「罰」として捉えていない。

「人を殺してみたかった」という異常な動機で殺人を犯してしまうサイコパスに対してのわたしのスタンスは、


あなたにそう思わせようとする脳も、あなたにそう思わせようとする脳を作ったDNAも人生も、それ自体は決してあってはならないものではなかった。

けれども、それを実行に移す主体とわたしたちが同じ世界で生きていくことはできません。

わたしたちは、わたしたちを守るために、あなたを殺します。
ごめんなさい。さようなら。

ということになる。

人を憎む憎まずに関係なく、結局死刑に処せられるのであればどっちも同じじゃないかと思われるかもしれない。
けれども、人を憎むか憎まないか考えることは将来、「殺人鬼とあなたのDNAは○%の割合で似ています」といったDNA調査をできるようになり(既にそういう闇サービスがあるかもしれない)、その存在を許すか許さないか、という議論が噴出したときに意味を持つ。そういうことがわかるようになると必ずうろたえる人々が出て来て、今までになかった差別軸が現れる。DNA差別である。
その勢力に負けると、選民思想社会が完成する。

わたしたちは強い心をもって「みんな違ってみんないい」と言えるようにならなければいけない。

 

 

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

 

 

 

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

 

 

 

*1:ただし、もしもある凶悪な行為を100%実行する形質が存在することが明らかになった場合、その存在を認めることはできないだろう。何をもって100%と断定できるかは微妙だが。

私が金正恩だったら

朝生見てたら、「トランプ大統領の今回の北朝鮮へのやり方に」「賛成」が61%という結果が出ていた。

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youtu.be

現在北朝鮮は核実験を成功させ、核爆弾を推定20個ほど保有しているらしいが、これを長距離弾道ミサイルに搭載して標的を攻撃するという能力までは持っていないらしい。中長距離弾道ミサイルは一度大気圏を出てから落下してくるらしいが、そのとき空気抵抗によりものすごい熱を発するため、弾頭の攻撃能力が失われるという。*1これを避けるためには高度な技術が必要で、その開発に北朝鮮はまだ追いついていない。そのレベルに達するのに早くとも4,5年かかると見られているという。

という背景があるので、「金体制を潰すなら今しかない」という先制攻撃案をとなえる人もいる。冒頭の投票結果、賛成61%という数字が出るのもそういった背景があると思われる。

しかし、本当に北朝鮮を潰すようなことができるのだろうか?
米軍が先制攻撃し、一気に平壌制圧までの戦争を始めたとしよう。
わたしが金正恩となって全力で金体制崩壊の阻止をこころみたい。

 

***

 

どんな奇襲であっても北朝鮮にとっては想定内である。いくつかの攻撃拠点は破壊されるが、速やかに反撃する体制は整っている。ソウルに向けられた大量のミサイルが発射される。同時に朝鮮戦争が再開。ミサイルの応酬が繰り広げられ、陸空で戦火が飛び交う。北朝鮮も大きな被害を受けるが、ソウルは首都機能停止状態に陥る。

一方で、北朝鮮は米空軍から猛攻撃を受ける。
北朝鮮はおそらく空中戦ではアメリカに全く歯が立たない。ゆえになるべくアメリカに的を絞らせず、ミサイル攻撃と同時に分散させて空軍部隊を出動させる。狙いは東京への空襲である。おそらく高確率で全機が東京に辿り着く前に米軍または自衛隊が撃墜するだろう。しかし、ミサイルをすべて迎撃できるかといえば、かなり怪しい。
日本では携帯が警報を鳴らす。空襲警報とミサイル警報である。
はじめの20発のミサイルはすべて迎撃に成功し、そのニュースが日本で大々的に報道され、twitterのタイムラインは異様なテンションとなりナショナリズムが盛り上がる。
しかし、次の20発のミサイルのうち1発が迎撃をのがれ本州内に着弾する。化学兵器や核爆弾搭載ではなかったが、死亡者が出て日本に戦慄が走る。日本のtwitterでは「もしこれが核爆弾だったら...」といった動揺がひろがる。
ところが、北朝鮮にとっては40発に1発しか着弾しないミサイル攻撃ではらちがあかない。そうこうしている間にも北朝鮮は米空軍の猛攻撃を受け、攻撃拠点がどんどん破壊されてゆく。「北朝鮮の降伏も時間の問題だ」と専門家が言い始める。

実は、これら北朝鮮の戦闘機とミサイルによる東京攻撃はどちらもおとりである。本当の狙いは工作員による核攻撃である。実は、ミサイル攻撃・空軍出撃に前後して、漁船に扮した工作員部隊を100船出撃させていたのである。そのうち10船は日本海保安庁に確保または保護されるが、戦闘機およびミサイル攻撃対応に気をとられた日本は90船の工作員部隊の侵入を許す。そのうちの3船が核爆弾を積んでいる。
核を積んだ1つの漁船は、日本海側のなるべくでかい都市、たとえば福岡の港につける。そこで工作員は核のスイッチを押す。(この工作員は死亡するが、北朝鮮内で英雄として扱われ、彼らの家族は生活を保障され、名誉を受ける手はずになっている。)日本はもちろん、世界中に動揺が広がり、連絡網はダウンする。福岡市民は、私の友人知人も含め10%が即死する。

この大厄災に焦ったアメリカはすぐさま金政権との話し合い画策する。事態を重く見た中国が両者を仲介し、北京に会談の席を設ける。ここで金政権はさらに世界を驚かせる。「あと2つ、日本に核爆弾を持った工作員を潜入させている」と。
歴史的大事件となるこの北京条約で、アメリカは北朝鮮の金体制援助を約束するのである。

 

*** 

 

さて、このシミュレーションの北朝鮮はなにがしたかったのだろうか?
それは、「一撃講和」である。旧日本軍が第二次世界大戦で呪われたように固執した終戦にいたるまでの戦略である。自軍にいくら被害をこうむってもよいから、敵に強烈な一撃をくらわす作戦を成功させるのである。相手がひるんだところで講和に持ってゆき、なるべくいい条件で戦争を終結させるのだ。
旧日本軍は一撃講和をやろうとして失敗し続け、だらだらと戦争を長引かせ、多くの戦死者を出すことになった。だが、現在の北朝鮮は旧日本軍と条件が違う。敵対する韓国や日本の本土が目の前にあり、しかも核兵器保有している。したがって一撃講和という戦略がワークする可能性がある。逆にいえば、アメリカが先制攻撃にふみきった場合、北朝鮮は金体制を守るためにこの作戦を成功させるしか道がないため、そこに全力を投入してくる。

工作員による玉砕覚悟の核攻撃は可能だと森本氏も朝生の中で言っている。なのでふつうに考えれば先制攻撃なんてことはできない。
さっきの例では福岡が標的となったが、韓国が核や化学兵器の標的になることははるかにかんたんに推測できる。つまり、「武力制裁に賛成する」というのは、「私は少なくとも韓国は見捨てます」というメッセージに非常に近い。韓国を見捨てておいてアメリカには守ってもらえると信じているのもおかしいし、こういう世論調査結果を出すことが韓国の日本への絶望感をたかめている可能性にもうすこし配慮したほうがいいと思う。

突然変異で進化はできない。進化論最大の謎に突破口を開いた研究

「進化論」という理論をはじめて知ったのはたしか大学のときだった。「自然淘汰」と「突然変異」という超シンプルな原理で多様な生物の誕生を説明できてしまうことに衝撃を受けた記憶がある。

しかし、ダーウィンが唱えた進化論は「自然淘汰」が中心で、「突然変異」という概念は出て来なかった。ダーウィンが生きていた時代には、遺伝子という概念さえも未発見だったため*1、突然変異といった発想が困難だったと思われる。したがって、ダーウィンは「どのようにして生物は新たな形質を獲得するのか」という大問題には触れなかった。自然淘汰だけでは生存に有利な個体を”選別”することはできても、生存に有利な形質を”つくり出す”ことはできないのである。

時代は流れ、今や生命を司るセントラルドグマ、DNAの存在が明らかとなった。これによって「突然変異」の仕組みが明らかとなった。つまり、「ランダムにDNA塩基配列に変更が起こり(突然変異)、そのうち『偶然にも』生存に有利だった形質が保存される(自然淘汰)」という説明がなされるようになったのである。これがダーウィン進化論の強力な援護となった。

と思われた。

が、突然変異が進化を促すという説明は全くもって不十分であるばかりか、間違っている可能性すらある。後述するが、理論的に大きな穴がある。
「進化論」でググると分かるが、この点を巡って大混乱が起きており、2017年現在は検索結果1ページ目の約半分が反進化論を支持するというとんでもない状況になってしまっている。(個人的には、突然変異による進化が説明できないからと言って、進化自体を否定するのは乱暴すぎる気はする)
この科学の空白地帯にビジネスチャンス?を見出した人々が、宇宙人や神による生物創造説を提唱しているが、私にとって身近な例だとエホバの証人がある。彼らは熱心な布教活動をしていて丁寧な冊子を配っているので私にも分かるのだが、明確に突然変異による進化を否定している。彼らは進化を「大進化」と「小進化」に分けて考えていて、イヌからチワワ、ゴールデンレトリバーなど様々な品種が生まれる「小進化」は認めている一方、サルがヒトに進化したり、爬虫類が哺乳類に進化するような「大進化」は認めていない。意地悪い言い方だが、宗教上、現代の科学をどう解釈するかというこの戦略は巧みである。なぜなら大進化を説明する化石はほぼ見つかっていないし、突然変異の蓄積で生物に大進化を起こすことなど不可能に近いことが数学的に示されるからだ。

進化の謎を数学で解く

進化の謎を数学で解く

 

「 突然変異による進化は不可能」という問題提起から始まるのが「進化の謎を数学で解く」である。難しそうな内容だから軽く読み流すだけしてみようと思って購入すると異常なおもしろさで驚愕した。タイトルが心理的障壁を上げている気がする。本書に数式は一切出てこない。

なぜ突然変異による進化が不可能なのか。この本の冒頭で示される「ハヤブサの眼」の例がとてもわかりやすくエキサイティングな内容なのでこれを引用しつつ解説したい。

ハヤブサは獲物を狩るために突出した解像度の眼を持つ。1キロメートル以上の距離からハトを捉えられるという。この芸当を可能にするのは、クリスタリンという透明なタンパク質によるという。これがレンズの役割を果たし光を屈折させ、像を結ぶ。
多く見積もっても、生命が地球に誕生してから30億年が経ってようやくクリスタリン搭載の脊椎動物が現れた。つまり、地球上の全生命が突然変異/自然淘汰を繰り返して30億年後にクリスタリンを生成できる確率はいくらか?というクイズを考えることで、「突然変異による進化の可能性」を検証できる。

そのシミュレーション結果は散々である。
クリスタリンは数百のアミノ酸が鎖状につらなるタンパク質である。アミノ酸は20種類のパターンがあるので、DNAからランダムにクリスタリンを発現させようとすると、20の数百乗の確率になる。これは超々天文学的な数字だ。宇宙に存在する水素原子の数よりもさらに気が遠くなるほど大きい数となるらしい。こんなオーダーでは、どんな理屈をこねくりまわしても、わずか30億年で”ランダムに”高精細レンズという奇跡的な形質を獲得するなど到底不可能である。ちなみに、クリスタリンがタンパク質のなかでとくべつアミノ酸鎖数が多いというわけでもない。生物を構成する器官はクリスタリンにとどまらず奇跡のタンパク質めじろ押しである。

この事実を知ると、エホバの証人説はもちろん、宇宙人想像説も全くバカにできなくなる。彼らが神秘主義にこたえを見出そうとするのはもっともなことだったと思い知らされた。
けれども、本書はもちろん神秘主義的な本ではなく、進化論を支持する。驚くべき研究で。生命の多様な進化は必然だったのではと今になっては思う。そしてここで紹介される研究を目の当たりにすると、いよいよ神秘主義者たちのアイデンティティが危うい。この著者は進化論最大の謎に風穴を開けた。

私は本書を読んで、中間の長さの首を持つキリンの化石が見つかっていない理由も分かったような気がする。その理由はたぶん、首が伸びるという進化が驚くほど短期間で起こったためだ(ウイルス進化説ではなく)。
生物のDNAは絶えず揺らぎを続け、進化が止まっているように見える生物でも、DNAの潜在的な多様性は時間と共に高まっていく。そして機が熟すと進化は短期間で一気に進む。
本書読まれた方はこの意図が分かるかもしれない。興味ある人はぜひ読んでほしい。

*1:正確にはメンデルが遺伝子の存在をほのめかす重要な発見をしていたが埋もれていたらしい

私たちが知らない微生物の世界

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ヒトとバナナのDNAが50%以上一致するという話がある*1。DNA一致率の導出方法はあいまいな部分があるにしても、細胞などミクロな構成要素の生命活動は、ヒトも植物も共通のモジュールが、共通の遺伝子によって支えられているという事実がある。ヒトも植物も実は基盤のデザインは似通っており、遺伝的多様性がさほど無いのである。

外見的には私たちと植物との間に共通点などないように思えるが、地球上の生物の遺伝的関連性を樹形図に表すと(上図)、全体から見てヒトと植物の遺伝的距離は非常に短いのである。「パンダ」、「シロクマ」、「カニ」、「ひまわり」など、私たちがよく知っている「動植物」は生物界全体の実に狭い範囲である。それらは真核生物という種類の一部を担うにすぎない。私たちが知らない世界、それはミクロの世界だが、そこには想像を絶する遺伝的多様性をもった生命が蠢いている。

想像を絶するとはどの程度なのか。
微生物のスケール感を知るために、以下の記事を見てほしい。たとえば、地球上に存在する細菌の総数は宇宙に存在する星の数よりも多いと言われている。

yokazaki.hatenablog.com

微生物は、圧倒的な多様性で、圧倒的な量で、あらゆるところに棲息しているのである。私たちはその詳細を知る必要があると思う。なぜなら、そのスケールを持った微生物群が、ヒトや動物、植物、自然、地球上のあらゆることに影響をおよぼさないはずがないからだ。
動物、植物、昆虫の生態は続々と明らかになってきているが、微生物はその比じゃないほどのスケールがあるのに、ほんのわずかなことしか分かっていない。私たちは微生物のことをほとんど何も知らないのである。

私たちは、細菌とよぶと悪いイメージを持ちがちだが、思い切ってその考えを捨てたほうがいいかもしれない。細菌に注意すべきなのは、医療現場の人たちか、そうでなくても食中毒に気をつけるくらいで十分なはずである。

ネガティブなイメージと逆行して、常在細菌という考えが浸透し始めている。私たちの体にふだんから存在する細菌のことである。腸内細菌の効用についてはテレビでも盛んに宣伝されるようになったが、彼らは消化吸収プロセスなどに深く関わっている。

なぜ幼少期に卵アレルギーだった私が、大人になって1日に何個も卵を食べられるようになったのか?
時間と共に少しずつ常在細菌を獲得し、アレルギー原因物質を分解できるようになったからだと考えられる。

なぜ我々が消化しきれないセルロース食物繊維)をウシなどの反芻動物は栄養に変えられるのか?
彼らが胃の中にセルロースを分解できる細菌を飼っているからである。だからウシは草だけ食べてあれだけでかくなれる。

サルやカバなど、多くの動物には親の糞を食べたり、親のおしりをなめる習性を持つ動物がいる。彼らはおそらく常在細菌の受け渡しをしているのである。常在細菌の受け渡しをできた個体がのちの生存競争を優位に進められたからこそ、彼らの遺伝子にはそういった習性が組み込まれている。

つまり、私たち動物は(おそらく植物も)細菌と共生関係にある。消化吸収という重要なプロセスを細菌に一部外注しているのである。1生物の体の中で膨大な微生物の生態系ができているというのは衝撃的だ。しかし、1つの”細胞”の中でさえ、そういった共生関係ができる例があるという。ミトコンドリアも元は別個の微生物が細胞内に侵入したのが起源だという説があるらしい*2

個人的な意見だが、人の遺伝的要素以外の『個人差』の多くは、『常在細菌の分布の差』で説明できるのではないか、とさえ思っている。(たとえば、化粧品が肌に合う合わないの違いなど)

失われてゆく、我々の内なる細菌

失われてゆく、我々の内なる細菌

 

 

土と内臓 (微生物がつくる世界)

土と内臓 (微生物がつくる世界)

 

 

社会問題としての肥満の真実

突然ですが問題です。
抗生物質がもっとも利用される現場はどこ?』

抗生物質はご存知の通り細菌などの微生物を殺したり、増殖を止めたりする薬である。細菌系の病気に罹ったときに処方される薬としておなじみだが、わざわざクイズにするということは、こたえは『医療現場』ではない。

こたえは、『畜産農家』である。

家畜である肉牛のエサには成長促進剤なるものが含まれていて、これには多くの抗生物質が含まれている。小柄なヒトが風邪をひいたときにだけ処方する医療用抗生物質に対して、大柄なウシが日常的に摂取する畜産用抗生物質の量は段違いだ。製薬会社から見ると、医療用として販売する抗生物質の売上よりも、畜産用のそれの方が大きいという。

なぜ牛に抗生物質を与える必要があるのか?その目的は、牛を病気から守るためではないらしい。実は、抗生物質を与えた牛はそうでない牛よりも、大きく育つことが分かっているのである。これによってエサのコストに対して出荷される肉のkgを増やすことができる。畜産農家は利益を最大化するために抗生物質を使用するのだ。

畜産牛に恒常的に抗生物質を与えまくることは、抗生物質乱用による耐性菌問題、すなわち抗生物質に耐性がある細菌の登場を促し、既存の抗生物質で治療不可能な致死性疫病の蔓延を許すリスクを増大させるとして、世界的に警鐘がならされている。しかしそれはたしかに深刻な問題だが、今回私が問題にしたいのはそれとは別のことである。「抗生物質そのもの」が人体に有害となる可能性について言及する。
今から書くことは、おそらく医療現場の常識としてまだあまり浸透していない。問題の因果関係が完全に証明された研究もおそらくほとんどない(そもそも因果の証明が相当困難な分野ではあるが)。にもかかわらず、多くの人の不安を煽る内容で、特に妊娠中や小さい子どもを持つ親の不安を不必要に煽るものとなるかもしれない。けれどあえて書く。近い将来、以下の本が警告する内容が常識となると思っている(なぜそう思うかは別の記事で書きたい)。

追記:書きました*1

失われてゆく、我々の内なる細菌

失われてゆく、我々の内なる細菌

 

 細菌初心者のわれわれは、まず人体には有菌空間と無菌空間があることを知らなければならない。皮膚表面や体毛、そして口腔、消化器を経て、肛門までの経路には無数の細菌が棲息している。一方でそれ以外の場所、各種臓器や腹膜や血液といった器官は完全な無菌空間である。免疫システムの敗北によってこれら無菌空間に細菌が侵入することがあれば、一刻もはやく抗生物質で治療しなければ数時間で死に至る。症例として敗血症や髄膜炎などが有名である。

そのため、必要な状況では間違っても抗生物質の使用を躊躇してはいけない。そんなことは医師が十二分に分かっているので医師の診断に任せておけばいいが、「抗生物質を処方しなくてもよい場面で、抗生物質を処方しない」という判断は医師にとっては難しい。「念のため処方しておくか」という意識がはたらくからである。
ご存知のかたも多いと思うが、ほとんどの風邪はウイルス性なので抗生物質が効かないのだが、念のため抗生物質が処方されることがある。

抗生物質を投与すると、それに晒された細菌は増殖できなくなり、死滅していく。人体のすみずみに満遍なく抗生物質が浸透するということはありえないので、全細菌が死滅するということはないが、細菌から見ると天変地異レベルの大災害である。
時間が経てば幸運にも生き残った細菌が増殖して、すき間を埋めることになる。これが繰り返されると、何度も大災害を生き残った細菌だけが増殖してすき間を埋めるので、細菌の多様性が失われることになる。

「細菌の多様性喪失」こそ、抗生物質が人体に及ぼす影響である。実はこれが、昨今急速に増えている現代病の原因なのではないか、という説がある。抗生物質の実用化が成し遂げられたのは第二次世界大戦中だったが、戦後急増していると見られているものに「肥満」があり、「1型糖尿病」、「ぜんそく」、「花粉症」、「食物アレルギー」がある。これらは全て「細菌の多様性喪失」によって引き起こされるものではないか、と疑われている。特に「ぜんそく」、「花粉症」、「食物アレルギー」などのアレルギー系疾患についてはかなり説得力がある。これらアレルギーは、こどものころに発症しやすかったり、何の前触れもなく突如発症する特徴がある。しかしそれが特定の種の細菌の絶滅によるものだとすれば、論理的な説明がつく。こどものころに食物アレルギーや、ぜんそくが多いのは、生後細菌の多様性を獲得できていないからだと考えられる(後述のように胎児は無菌空間から産まれてくる)。
また、「1型糖尿病」の発症メカニズムもアレルギーと似ている。免疫系の過剰防衛が引き起こす。

「細菌の多様性喪失」の一因と考えられている要因はほかにもある。それは「帝王切開」である。
子宮内は無菌空間だが、産道は有菌空間なのだ。つまり、通常赤ちゃんは無菌空間で成長し、生まれるときに産道を通ることで、体の表面や口から母親の細菌セットを継承して産まれてくる。この細菌セットは代々受け継がれる秘伝のたれのようなものだ。帝王切開の場合は産道を通らないため、秘伝のたれを受け取ることができない。赤ちゃんはゼロから身の回りの細菌をかき集めてこなければいけないことになる。

そして、「細菌の多様性喪失」の影響として、「肥満」があげられることにはかなり驚かされる。「失われてゆく、我々の内なる細菌」によれば、幼少期の抗生物質の過剰使用が太りやすい体質を生む可能性が示唆されている。
太りやすい体質にはもちろん、遺伝的要因や飽食の時代という時代的要因もあるだろう。しかし戦後、全世界で成人のBMI指数が急上昇していること、発展途上国もこの例にもれずBMI指数が上昇していることを考えると、「飽食の時代になったから」という説明だけに依存するのはかなり危険な気がする。現段階では、抗生物質による影響をわれわれは念頭に置いておく必要があると思う。なにしろ、「抗生物質で太る」ことをウシは実証しているのだ。

『労働生産性』をめぐる混乱をふまえて日本が知っておくべきこと

toyokeizai.net

日本の労働生産性が先進国中最悪の水準だというこの記事に対して、コメント欄が混乱の様相を呈している。ぱっと見、8割がたの人が「労働生産性」の意味するところを誤解している。「日本の労働生産性が低い」という命題から、「サービス残業」、「長時間労働」、「業務の非効率さ」などの問題を連想するようだ。この連想は、率直に言って的を外している。

労働生産性の定義

エコノミストにとっては、労働生産性という指標が以下のように見えているらしい。

  • 労働生産性 = 付加価値 ÷ 労働者数
  • 売上高 = 付加価値 - 変動費 = (経常利益+固定費) - 変動費

経営者のための経営分析手法 <第1回> 生産性とは 付加価値と付加価値労働生産性

ここで言う付加価値は、国の単位で言えばGDPに相当する。会計的には経常利益+固定費である。この数式を見ると分かるように、労働生産性を上げるためには、

  1. 労働者数を減らす
  2. 付加価値(GDP)を上げる

の2つの方法がある。

国の視点で見ると、「労働生産性をあげるために労働者数を減らす」というロジックは本末転倒である。「労働人口あたりのGDPが低いから、失業率をあげなきゃ」とか考えてる政治家がいたらアホすぎるのでそんな国からは脱出しなくてはならない。
しかし企業の視点で見ると、労働生産性をあげるために労働者数を減らす」というロジックが成立してしまう。少ない人数で多くの売上をあげるということは、従業員1人当たりの待遇もよくなるし、会計上かっこよくも見える。ところがこれは合成の誤謬の罠である。多くの企業が労働生産性という数値だけを追いかけて”ひたすら人員削減”に邁進すると、売上は伸び悩み、失業者は増大し、格差も拡大する。国から見ると良いことはなに1つない。

一方、付加価値を上げるということは、国にとっても企業にとっても消費者にとってもうれしい、追究されるべき価値である。かんたんに言えば、「コストの削減」ではなく、「売上を上げる」ということだ。「コスト削減」に対して、「売上を上げる」ことは並大抵のことではない。より多く、より高く売れる商品を開発しろということだ。前述の「定時退社」や、「業務効率の改善」は、それをやることで「売上を増やせる」という前提があってはじめて労働生産性に貢献するのである。

このことについて言及した、本当にすばらしい記事があるので紹介したい。

president.jp

重要なのは生産性ではなく付加価値

 この記事では、付加価値という数字を因数分解して考えている。

  • 付加価値 = 経常利益 + 固定費 = 経常利益 + (人件費 + 減価償却費)

付加価値は、純粋な利益だけではなく、固定費が含まれる。主な固定費には人件費や減価償却費がある。これはつまり、薄利の業種でも、多くの人を雇用して、設備投資して、大きなビジネスをしている企業は付加価値額も付加価値率も大きくなるということだ。記事中で言及されてるように、”付加価値率”が最も大きい業種はサービス業なのである。ただし、「労働生産性」という指標で見ると、従業員数で付加価値額を割る必要があるため、サービス業は最下位に落ち込み、ITやハイテク業界が上位に上がってくる。
しかし前述したように、なぜ従業員数で割る必要があるのか?は疑問である。従業員をより多く雇う企業のほうが社会に貢献している。今後ますます多くのことをコンピュータが代替できるようになると、「人にしかできないことをやるために、人を雇用する」ようになるだろう。すると「付加価値比率が高い企業は、人にしかできないビジネスをやっている」という見方ができる。そういう意味でもこういう考え方はかなり重要になってくると思う。以下の記事が言っていることも、これと似ていると思う。

巨大ベンチャーより中堅・中小に魅力(藤野英人)|マネー研究所|NIKKEI STYLE

まとめると、あなたが「定時退社」しようが、「2時間かかっていた仕事を1時間で完了」しようが、「ワークライフバランスを満喫」しようが、そのことは”直接的には” 、労働生産性に寄与しないのである。
労働生産性に寄与するのは、労働者数を削減するか、より多く高く商品を売ることである。労働者数の削減なんてのをやりだしたら本末転倒である。おそらく私たちが目指すべきことは、機械化困難な分野に多くの人的コストをかけて、いい仕事をしましょう。ということになる。もっと多くの人が顧客と向き合う仕事をするべきとも言える。