イヌやヘビがもつ異次元の嗅覚能にフェルミ推定でせまる
世界を把握するための3大五感を比較
視覚という感覚器は「光」、聴覚は「音(空気の振動)」がもたらす物理的情報に「意味」をあたえる。そして嗅覚は、「空気中の分子の濃度」に意味をあたえることになる。どうしてもわたしたち人間は、視覚>聴覚>嗅覚という順番で、より精密な世界の情報をおしえてくれると思いがちだが、実際には、これらの感覚には一長一短がある。
たとえば視覚の最大の欠点といえば、夜に機能しなくなるという点だ。人間のように電気を発明して、暗闇を照らすほどのエネルギーをあやつれるようにならないかぎり暗闇で役にたたない。深海生物やホタルなど一部の昆虫には蛍光能力があるいきものもいるが、暗闇を照らして見えるようにするためにこの能力をつかっているいきものはいない。かれらは、天敵への威嚇や求愛のため、つまり相手に自分を見せるために光を使っていて、自分が見るためではない。闇を照らすための発光には莫大なエネルギーがいるため、進化のパワーをもってしても難しいらしい。
聴覚について考えよう。聴覚の利点といえば、空気の振動をひきおこすものならなんでも、遠く離れていても感知することができる点にある。物陰にかくれた天敵が枯れ葉をふんだ音を即座にききとったり、数十キロはなれた川がどっちの方角にあるかつきとめることができるものもいる。物理的に見えないはずのものでも、聴くことはできるというわけだ。
しかし、聴覚の大きな欠点といえば、空気を振動させる類のものしか認知の対象とならないことだ。視覚や嗅覚と比べると、この点が決定的に違う。コウモリやアナツバメのエコロケーションだけは例外で、前述のような、自らが光を発して足元を照らすのに相当することを、音波をつかってやっている。光と違ってそれが可能になるのは、音波の場合、生成することが比較的かんたんだからだ。でかい声で叫べばいい。これによって、かれらはおそらく驚くほど正確な立体空間認識能をもっているだろう。とはいえ、エコロケーションをもってしても、目の前に熟した果物があるかどうかは聴覚だけではわからないだろう。
嗅覚は、これらの五感とくらべると、つかみどころがなく、とてもあいまいなことしか知ることができないように思える。目の前の人が笑っているかどうかということでさえ、嗅覚からはなんの情報もえられないのだ。
とはいえ、わたしたち哺乳類は(特に鳥類と比べて)嗅覚を特に発達させてきた動物である。恐竜の時代に、夜行性戦略をとることで恐竜との直接対決を避け、繁栄してきたという背景があるため、視覚にたよることがあまりできなかったのだ。実際に、ほとんどの哺乳類では嗅球という嗅覚情報を処理する脳の一部は、嗅覚受容体と直接つながっており、五感のなかで特別扱いとなっている*1。ところが進化の過程で、霊長類はとりわけ、嗅覚の精度を落とし、視覚を強化することになった。だから、今のわたしたちは嗅覚という感覚をあまり重視しないのかもしれない。
イヌやヘビがもつ嗅覚の謎
警察犬は、数キロにも渡って、においを手がかりに足跡を正確にたどり、ターゲットを見つけ出してしまう。
ヘビはにおいを味わうように、舌をシュルッと出して、空気中の化学物質を味見する。それによって獲物の居場所をつきとめ、追跡し、どちらの方角に逃げていったかもわかるらしい。ヘビに見つかって一度は逃げきってネズミやウサギも、そのにおいを辿られて結局巣穴を特定されてしまうことがある。
嗅覚を比較的退化させてきたヒトから見ると、これらの動物の嗅覚には驚きだ。小さいころから不思議に思ってたが、どうしてこんなことが可能なのだろう。歩いただけ、存在しているだけのターゲットを追跡できるのはなぜなのだろうと。
この疑問を解決してくれたのには、2つの視点がある。感覚器の潜在的パワーと、フェルミ推定だ。
感覚器の潜在能力
「ゾンビでわかる神経科学」で知ったのだが、人間の五感はわれわれが思っているよりずっとすごい分解能をもっているらしい。なんと人間の視覚は、数個の光子を識別可能だという*2!聴覚の感度にも驚くべきものがある。わたしたちが、右から聞こえた音と左の音の方角がわかるのは、時速1200kmという音速でかけぬける波が、0.0何秒というタッチの差で鼓膜を揺らすタイミングのずれを認識できているということだ。
進化がつくりだす生物機械はこの世に存在する手がかりはなんでも、識別できるようになるのかもしれない。それが生存競争において有利であるかぎり。
だが、感覚器におそるべき潜在能力があることはわかっても、もう一つの疑問がのこる。そもそも、においの元となる手がかりがなくては、足跡を追跡することなどできないはずだからだ。ということで次は、わたしたちが存在するだけでこの世界にどれだけの爪痕を残しているのか、ということをフェルミ推定で考えよう。
フェルミ推定
ローマ帝国の指導者ユリウス・カエサルは、「ブルータス、おまえもか」の一幕としても知られているように、暗殺されてしまうわけだが、そのカエサルの最期の一息に含まれた分子を、今このブログを読んでいる間に、わたしたちが吸っている確率は何%だろうか?
なにやら興味をひくへんてこな設定のクイズだが、この模範解答は驚きとしかいいようがない。こたえは、ほぼ100%だ*3!!
どうしてこんなことがわかるかといえば、人が一度の呼吸で吸って吐く息の体積をわりだし、地球の大気中の粒子数を概算し、密度を計算し。。。ということをやると、厳密な値はわからなくとも、そのスケールを推定できるということだ。これがフェルミ推定のすごさだと言える。
Further physics - The last breath of Caesar
このスケールがわかれば、嗅覚の限界についても推定することがだろう。「今朝マクドナルドを食べた男性が30分前にこの通りを通った」といったことがわかるようになるかもしれないし、イヌはすでにそういうことを思っているかもしれない。
個人的にとても興味をひいたのはちょっとまえNHKで放送していた「スニッファー 嗅覚捜査官 | NHK 土曜ドラマ」というドラマだ。異常に嗅覚の鋭い人間(阿部寛)がにおいを手がかりに凶悪事件を次々と解決するという話なのだが、わたしには、これがかなり未来予言的なSFに見えた。
嗅覚にあって、視覚と聴覚にはない、大きな特徴の一つは、減衰時間の長さだ。光や音といった波は時間とともに急激に減衰し、もはやなんの手がかりも残さなくなってしまう。犯人がここにいた、という情報が残像や残響でのこるということはないが、においであれば、それがある。
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