宇宙スープ

Once upon a time, the Universe expanded from an extremely dense and hot soup

GoogleのDNAは欧米のDNA

Googleはインターネットと共に突如現れた天才集団かのように思っていたけど、欧米の伝統の延長線上にいる集団だったのだということに気付いた興奮を残しておく。

日本のIT文化オーバービュー

アメリカには世界を席巻するIT企業がいくつもあって、日本にはなぜ生まれないのかみたいな比較は昔からけっこう見てきた。

エンジニアの給与や社会的地位が日本と比べて欧米ではめちゃくちゃ高い、経営者が技術の重要性を理解している、というのはよく聞く。(実際に欧米のエンジニアの給与はすごい)

http://stackoverflow.com/research/developer-survey-2016#work-salary

日本では、大手企業から仕事を受注してシステム開発をおこなうSIerシステムインテグレーター)という職種がエンジニア界で非常に大きな影響力を持っている。中でも悪名高いSIerはプログラム書かず設計だけをおこなって実際のプログラミングは下請けの開発会社に任せることが多く、その開発スタイルがいわゆるデスマとよばれる地獄体験を引き起こす旨の報告がインターネットからいくつも上がっており、こうなるとお金も時間もたくさん費やした結果最悪の成果物ができる事例が頻発し、プログラマから恐れられていて、SIerを敵視している人さえいる、そんな問題提起を幾度となく見てきた。

ポイントはいくつかあると思うけど、この状況はエンジニア(プログラマ)の社会的地位を下げる方向に向かう点で問題がある。システム開発における”プログラミング作業”が2次受け、3次受け、4次受けとたらい回しじゃないけど会社を転々とし、ソフトウェアを作ったことない人がソフトウェア職人に、言われたものを言われた通りに作るよう指示を出す。プログラマは末端の仕事になる。

この構図が一般的になると、「プログラミングが好きだからプログラマになりたい」という若者に「自分の将来をもっと考えたほうがいい」とアドバイスするようになるかもしれない。

多くの人がそう思い始めると、技術蔑視の風土が出来上がる。

技術蔑視の風土

技術蔑視の風土が生まれる土壌について、個人的にはわりと理解がある気がする。少なくとも自分はエンジニアでありながら技術蔑視の嫌いがあったと思う。今自分はソフトウェアエンジニアをやってるが、学生のころはエンジニアになるのは嫌だった。もっと人を笑わせ楽しませ感動させることがやりたいと思ってた。エンジニアはそういう職業ではないと思ってた。きつい、暗い、卑しいイメージがどことなくあった。
加えて、技術とは問題解決の手段に過ぎない。目的は別のところにある。目的自体が消滅したり、解決手段はよりよい別の方法に置き換わるので、特定の技術は必ず廃れる。しかもそれがいつどのように廃れるか予測するのは難しい。

そんなものに人生の大半を捧げるなんてアホらしくない?それよりはもっと本質的なことをテーマにして技術の部分は誰か別の人にやってもらった方がよくない?

多くの人が一度は思ったことがあるかもしれないが、実際にそう思って技術開発を外注することで楽にお金を稼げるようになった企業が気付いたら競争力を失っていた例もよく聞く話。

とにかく、技術を忌み嫌う感情は個人のみならず法人にさえもわりと自然に起こることなのだと思う。現代社会で技術の重要性が叫ばれるようになったのは、科学技術がその力を持って蔑視者を黙らせてきた大きな成果だと思う。

なぜ日本にGoogleが生まれないか

Googleが技術者魂を尊重する文化を醸成したことはHow Google Worksでも読んだけど、今までその凄さにピンと来てなかった。けどここ数年マイブームになってた世界史を調べてて、最近その凄さがわかってきた。

冒頭の問い、「日本になぜGoogleが生まれないのか」に対する自分なりのこたえは、「インターネットが生まれたのがそもそもアメリカだから。。。」

インターネットとその関連技術の開拓者と弟子たち、そして彼らの熱量を間近に感じた人々がいて、さらにその派生熱量を感じ取った人々もいて。。。それはアメリカと日本に生まれたものの差が歴然なのも当然だろうと思う。

問題は、なぜインターネットはアメリカで生まれのかということだ。なぜコンピュータは欧米で勃興し、相対性理論産業革命万有引力ピタゴラスの定理
なぜいつも欧米なのか、という壮大なテーマにある。

悲しい歴史もあったことは承知の上で、古代から欧米が人類の文明に寄与してきた功績はあまりにも偉大すぎる。数千年に渡って天変地異的な発明・発見を継続してきた民族は欧米を除いて他に無い。突き詰めれば、「なぜ日本企業はダメなのにアメリカは…」のこたえはこの歴史的事実にぶち当たる。

それについて言及した本「社会人のリベラルアーツ」をこの前読んで、自分の中で今さらながら技術の捉え方が少し変わった。

独自解釈もあると思うけど、読了後の考えを説明してみたい。

日本と欧米の技術文化比較

たとえば、中国が近代以降経済成長で出遅れた要因として、技術蔑視の風土があげられていて、その主要因として科挙の悪影響を指摘している。

科挙 Wikipedia

このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて大きくなっていった。科挙に及第した官僚たちは、詩文の教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。これを象徴する詞として「ただ読書のみが崇く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。

現代社会において技術蔑視の価値観がいかに致命的かこれを読むと少し想像できる。

逆に戦後奇跡的な経済成長を遂げた日本には技術を愛でるマインドがあった。
その分析としておもしろいのは、日本人が使う道具である。たとえば、「箸」は外国人から見ると異様な文化の一つ。フォークやスプーンなどの使いやすい道具が昔から伝わっていたはずなのに、未だに日本の食卓の主要ツールは箸である。箸の特徴は、使い方の習得こそ難しいが、一度習得できれば小さい豆を一つだけつかむような芸当も可能になる点である。
同じことが「ベルト」と「帯」、「ドア」と「引戸」、「カバン」と「風呂敷」にも言える。
日本発祥の道具は、習得できれば微調整が効く、玄人好みに作られている。日本人は細かい仕事に対するこだわりが強く、道具にもそのこだわりを実現できる性能や実用性を求めた。

古来から技術が好きという極めて有利なパーソナリティを持っていた日本人だが、歴史を振り返ると、近代以前、日本の科学技術史に残るような貢献はほとんど無い。
これについて「社会人のリベラルアーツ」では、
「日本人は問題解決のために技術を駆使した。しかし一度問題が解決されればそれで満足した。」と説明される。たとえば、酒の腐敗を防ぐ低温殺菌法は日本では早くから実用化されていたが、なぜ火を入れると腐敗が防げるのか、という抽象的な問題に取り組むことはなかった。こだわっていたのは、あくまで実用性だった。

一方、欧米の道具は日本の逆で、小回りをある程度犠牲にして初心者にも優しいデジタル設計になっている。ある意味で仕組み化である。

欧米の科学技術者たちは、複雑で抽象的な問題を扱うのが上手かった。問題解決した後もその根源的な原因を抽出し、汎用性が高い対策を講じたり、原理原則を体系的に追究したりと、そんなマインドがあった。技術がそのベクトルに向かえば、数学や科学などの一般理論を構築するに至る。

最近見たこのニュースは特にGoogleの突出した科学技術マインドを示していると思う。

「解決法を探す前に、問題を徹底的に理解することが重要」

「一度解決されればそれで満足した」とは対象的なこの科学技術精神は古代ギリシャから現代のアメリカにまで継承されてきた、近代以前までは欧米にあって他のどの民族にも無かった最大の特徴だと思う。Googleは見事にそれを受け継いでいる。

特定の問題解決手段である技術を一般化、体系化のベクトルに向けるには、箸指向よりもスプーン・フォーク指向の方が向いていたのかもしれない。

欧米のお家芸自由討論

How Google Worksで「あるプロジェクトをオープンソースにすることは、全力でその問題に取り組むことを意味する」というメッセージがある。この言葉にも、科学という分野を切り拓いてきた欧米のDNAを感じる。

オープンソースとは、ソフトウェアのプログラムとなるソースコードを全世界に公開して、誰でもそのソフトウェアを修正したり議論に参加できるようにする運動のことで、今のIT技術はオープンソースなしでは成り立たない超重要な概念。ソースが公開されているということはそのソフトウェアを無料で使えることも意味する。

開発の過程を公開するということはプロジェクトを自由討論の場に晒すということである。これによって、一つのプロジェクトに全世界から叡智が結集することになる。その結果通常では考えられないスピードで高品質のソフトウェアがいくつも生み出され、洗練されていく。

ソースコードを公開する文化を作ってきた人々の胆力に個人的にはかなり驚かされる。自由討論に晒すということはインターネット上の出自不明な多数の人々が議論に参加してくることを意味する。結果、主催者には高度なファシリテーション能力が求められる。

日本人に欠けていた能力のもう一つがこのファシリテーション能力だったのではないかと思う。これがなければ議論を許容・推進する文化は生まれようがなく、技術の洗練から一般理論の構築に昇華させるには大きな壁となる。

おそらく現代最も重要と思われるこの能力を欧米人は古代ギリシャ時代から鍛えてきた。あるアイデアに対してアンチテーゼが生まれ、相反する2つのグループが論理を戦わせ、弁証法的に科学が発展していった。それはキリスト教会が大きな支配力を持っていた時代でも変わらなかった。むしろキリスト教会が科学者により強固な証拠を提示するよう求めたため、知の追究を促した側面もある。

ガリレオを断罪した天動説地動説論争を筆頭に、ボルツマンを死に追いやった原子論エネルギー論論争などは熾烈な展開を広げた例として有名である。現代のソフトウェア業界においても、静的型付けと動的型付け、オブジェクト指向と関数型、RDBMSとKVSなどの相反するパラダイムがあって、アウフヘーベンへと向かう動向はかなりおもしろい。これらのめまぐるしい弁証法的進展は自由討論、すなわちオープンソース文化がベースになければおこりえなかったと思う。

やっぱり、アンチテーゼ勢力が存在しなければ、実験的手法に基づいた科学が発展しないのだと思う。実験的観点が欠落するとどうなるかわかりやすい例があるので、これも「社会人のリベラルアーツ」から引用する。

さて、中国の錬金術の主目的は、じつは金儲けのために金を得ることではなく不老不死の薬を作る、つまり錬丹術にあった。古くは秦の始皇帝前漢武帝から連綿と丹薬を摂取しているが、元来、丹薬はヒ素や水銀など毒性の強い鉱物を含むため、いずれの皇帝も不老どころか中年で「暴卒(早死)」している。清の史家、趙翼の『二十二史劄記』(巻19)には、唐の皇帝の多くが不老不死の薬、丹薬を摂取したがいずれも早死したと非難し、古詩として「食を服し、神仙を求むも、多くの薬の誤るところとなる」を引用している。実際、唐では6人の皇帝が丹薬によって早死したと述べる。

 

長年ムラ社会で空気を読んで生きてきた民族が、フラットな自由討論の世界に身を投じるのは難しいだろうし、技術を蔑視したり畏怖したりする感覚を克服するのも簡単ではないと思う。欧米さえも数千年に渡ってそれを克服してきたわけだ。自分の場合、5年ほどソフトウェアエンジニアをやって得た最大の収穫はこの感覚を以前よりも克服できるようになった点だと感じる。古来からの発明発見を1つ1つ積み重ねて、現在の数々の問題を鮮やかに解決してしまう科学技術者たちは本当にすごいなと。

 

念のため

欧米の科学技術への貢献の偉大さを再確認した感動はあるものの、彼らが他の民族より生物学的に優れているとかそういうことは微塵も思ってません。ちょうど今、欧米が文明発展のリーダーだったのは地理的な要因がすべてであるという本を読んでいるところでもあります。