宇宙スープ

Once upon a time, the Universe expanded from an extremely dense and hot soup

罪は憎むもの、人は憎まぬもの

善悪に対するわたしの考えは自分で言うのもあれだけどとってもピュアだ。
「"罪"を憎んで人を憎まず」
「みんな違ってみんないい」
の2つでほぼ言い表せる。

このコメントを見ておもしろいなと思うのは、結論は千坂さんと全く同じなのに、その表現の解釈が全く逆になることだ。

わたしの感覚だと、「罪」を徹底的に憎まなければ、「その精神的あるいは社会的な背景を調べ、問う」ことはできない。憎むべき対象が「その人」なのだったら、とりあえずめんどうだからこの犯人を罰したらよくない?で終わる。「罪」を徹底的に憎むからこそ、その人を罰するに留まらない恒久的な対策への衝動が生まれる。

とは言え、わたしはこのコメントを見るまで気付かなかったが、たしかに「罪を憎んで人を憎まず」という言葉はあいまいな言葉に聞こえる。特に「憎む」と「人」が何を指すのか人によって解釈がかわりそうだ。

たとえば、「憎むべきもの」を「あってはならないこと」とおきかえる。
そう考えれば、「あってはならない」のは、罪である「行為」の方である。「人」はあっていい。「行為」の対照となるのは、行為を生み出す人間の属性、すなわち「形質、性質、特徴」のようなものである。
つまり、「”行為”を憎んで”特徴”を憎まず」があるべきものだと思う。

「形質、性質、特徴」は、極論すればヒトのDNAである。
遺伝子配列それ自体に、善も悪もあるだろうか?憎むべきものとそうでないものがあるのか?存在していいものとだめなものがあるのか?生まれか育ちかの議論はここでは関係ない。いずれにしても、ある特徴をもつに至る過程は運命に依存する。

「形質、性質、特徴」は、それ自体に善悪があるはずがない。「行為」となって表に現れてはじめて、(少なくとも主観的には)善悪の概念を帯びてくる。当然ながら、同じ「形質、性質、特徴」を持った人が善悪的に正反対の「行為」をおこなうこともある。
そうである以上、憎まれるべきものはあくまで「行為」の方である。*1
「人を憎め」というのは、場合によっては「生まれたばかりの赤ん坊を憎め」ということでもある。そんなことできます?

わたしは今のところ死刑制度廃止論者ではない。
人を憎まずに死刑賛成というのは矛盾していると思われるかもしれないが、わたしはたぶん刑罰を「罰」として捉えていない。

「人を殺してみたかった」という異常な動機で殺人を犯してしまうサイコパスに対してのわたしのスタンスは、


あなたにそう思わせようとする脳も、あなたにそう思わせようとする脳を作ったDNAも人生も、それ自体は決してあってはならないものではなかった。

けれども、それを実行に移す主体とわたしたちが同じ世界で生きていくことはできません。

わたしたちは、わたしたちを守るために、あなたを殺します。
ごめんなさい。さようなら。

ということになる。

人を憎む憎まずに関係なく、結局死刑に処せられるのであればどっちも同じじゃないかと思われるかもしれない。
けれども、人を憎むか憎まないか考えることは将来、「殺人鬼とあなたのDNAは○%の割合で似ています」といったDNA調査をできるようになり(既にそういう闇サービスがあるかもしれない)、その存在を許すか許さないか、という議論が噴出したときに意味を持つ。そういうことがわかるようになると必ずうろたえる人々が出て来て、今までになかった差別軸が現れる。DNA差別である。
その勢力に負けると、選民思想社会が完成する。

わたしたちは強い心をもって「みんな違ってみんないい」と言えるようにならなければいけない。

 

 

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

 

 

 

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

 

 

*1:ただし、もしもある凶悪な行為を100%実行する形質が存在することが明らかになった場合、その存在を認めることはできないだろう。何をもって100%と断定できるかは微妙だが。