宇宙スープ

Once upon a time, the Universe expanded from an extremely dense and hot soup

鳥を識る批評ー進化論の真髄が少しわかる批評

 

鳥を識る: なぜ鳥と人間は似ているのか

鳥を識る: なぜ鳥と人間は似ているのか

 

 鳥類全般に共通する行動原理を知りたくて、「鳥を識る」で入門を果たした。鳥の生態について、ティンバーゲン的に言うと、至近要因と究極要因からの説明が充実していて、驚きの事実も散りばめられており、とてもおもしろかったと思う一方、つっこみどころが多すぎて批評を書く手をとめられなかった。

ひとつひとつ私の意見もふまえて指摘していきたい。

 

コウモリは鳥に勝てるか?

恐竜が絶滅し、翼竜も絶滅した空にコウモリが進出して、夜の世界を中心に大きな勢力となりましたが、コウモリの呼吸法は一般的な哺乳類と同じで、鳥類よりも優れているわけではありません。もちろん、数千メートルの高高度も飛行できません。この先、コウモリががんばって進化して、さらなる大繁栄をすることがあったとしても、こうした資質で大きく差をつけられているために、空のシェアを鳥から奪う事はおそらくないでしょう。

まずは第2章、鳥類と哺乳類の呼吸法を比較しているところでコウモリは鳥に勝てないと言っているところだが、
free-tailed batとよばれるコウモリはなんと高度3000mで飛ぶという圧巻のパフォーマンスを披露する!*1

https://academic.oup.com/jmammal/article-abstract/54/4/807/844057?redirectedFrom=fulltext

ここで著者が言っている趣旨は「鳥類の方が哺乳類よりも呼吸効率がいい」ということで、それはおそらくそうなのだろうが、コウモリが「数千メートルの高高度も飛行できません」というのは間違っているので指摘せざるをえない。おそらくこのコウモリよりも飛ぶのが下手な飛翔性の鳥もいるだろう。

コウモリをあなどってはいけない。イルカ、シャチ、クジラらの呼吸効率が魚類よりも圧倒的に悪いのは明らかだが、彼らが海で繁栄しているのを見ると、進化における競争は総合力がものをいうことがわかる。

 

なぜ恐竜は絶滅し、哺乳類と鳥類は生き延びたのか?

だとしたら、生き延びた種と絶滅した種を隔てたのは、何だったのでしょうか?その理由として最初に指摘されるのが当時の鳥類と哺乳類の平均的な体のサイズと繁殖スピードです。

次も同じく第2章、大絶滅時代に恐竜は滅びたが哺乳類と鳥類はかろうじて生き残った、その差を分けたのはなにかというミステリーに言及する箇所。

体のサイズが小さいことは激変する環境への適応に有利だ。その理屈はr/K淘汰として説明できる。過酷な自然環境を生き抜くのに重要な要素は、個体数が多いことである。数が多いとそれだけで絶滅をまぬがれる確率が高くなるし、環境に適応する者が出現する確率も高くなるだろう。そのため多産で、早熟であることが非常に有利となる。そして、限られた資源のもとで数を増やすためには、体の大きさを小さくせざるをえないというわけだ。

隕石や火山による劇的な気候変動を生き残るためにそれが重要だったという考えは私と同じだが、なぜ「平均的なサイズ」が重要なのだろうか?鳥は空をとぶために小型化したので平均的に鳥類は小さかったというのはおそらく正しいが、それは鳥類は小型の恐竜から分岐したということの裏返しでもある。われわれは通常恐竜というと巨大なものをイメージするが、小型の恐竜もたくさんいたはずだ。ここでの議論で「平均的なサイズ」を持ち出すのは、巨大な恐竜が小型恐竜のあしをひっぱって道連れに絶滅させた、というおかしな主張にきこえる。

この説明では、鳥類、哺乳類と恐竜の命運を分けたものがなにかという根本的な問いにはかすりもしていない。

 

ヒトが器用な腕や指を捨てるとき

これは1つの仮定ー想像ですが鳥の祖先の恐竜が、何らかの要因から、ものをうまく握ることができる手や指、抱きしめることのできる柔軟な腕を先に身に付けていたとしたら、人間が手を手放したいとは思わないように、彼らはその便利な手を翼にしようとは思わなかったのではないでしょうか。

第3章、飛翔の進化にせまる章であげられている一文。

ただの想像だというのはわかるのだが、 この一文を読むと、著者は自然淘汰の威力をあまりわかっていないのではないかと思えてしまう。鳥の翼はわれわれから見ると、ものすごく優れた発明に思えるが、ダチョウ、キウイ、ペンギンなどいとも簡単に”飛ぶため”の翼を捨ててしまった鳥はたくさんいる。鳥が簡単に飛行能力を捨てられるのだから、手や指についてもそうできるだろう。一応私たちの腕も、数億年前は泳ぐためのヒレだったのだから。

 

鳥類に長寿のアロメトリーは成り立つか?

動物の心臓が一生の間にうつ総数は一定で、心拍数の少ない動物ほど長生きと、「ゾウの時間 ネズミの時間」などでは示されていましたが、それは基本的に哺乳類に限ってのことで、鳥類には当てはまりません。

こういった断定口調にあやしさを感じたので念のため調べてみたが、鳥類の代謝率と長寿のアロメトリーを調べ直した論文がすぐ見つかった(見つかるまでにかかった時間5秒)。

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2527636/

この論文では、当初鳥類ではアロメトリーが成り立たないと思われていたが、調査対象母数が少なかったので増やしてみたら哺乳類同様の相関が見つかったとある。

 

動物たちはなぜ群れるのか?

生き延びると言うことに関して、動物は極めて利己的です。特に体の小さな鳥にとって利己心は不可欠と言って良いもので、猛禽類や肉食哺乳類に襲われた場合、自分以外の群れの誰かが犠牲になってくれれば自分が助かると言う意識を持つのも、鳥にとってごく自然なことです。サイズが近く、食性が近い異なる種が混群を作るのも、大勢でいれば自分が殺される確率が減らせると言う意識がうちにあればこそです。

群れが敵に襲われたとき、(つがい相手以外の)誰かが犠牲になることで自分が助かれば良いと考えるように、鳥は自己中心の思考をします。エゴイスティックではありますが、それが生物の本質でもあります。

第5章、このあたりから個人的にかなり反論したいことが多く、読み進めるほど不機嫌になってしまった。

まず、動物は極めて利己的という主張。
(あたかも人間は利己的ではないという含意も感じるが)私は著者がドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んでいないか誤読していると疑っているが、とりあえずその話はあとでするとして、ここでは「大勢でいれば自分が殺される確率が減らせる」という論理にかみつきたい。

これは本当にそうなのか?すんなり受け入れられそうにも思えるが、疑ってかかるべき類のものだ。

仮にある鳥Aをメインに捕食する肉食動物Bがいるとしよう。肉食動物Bが一定の数存在し、Bが食べる量は一定だとすると、犠牲になる鳥Aの数も一定ということになる。大勢でいるだけで殺される確率が減るということはない。大勢でいれば、一度の狩りで犠牲になる確率は低いかもしれないが、その半面大群でいるがゆえに遠くからでも敵の目をひきつけやすいため、狩りの回数、狙われる回数が増え、結果的に殺される確率はかわらないと考えられる。むしろ、Aの大群がBにとって格好の標的になったら、おなかいっぱいになるまで狩られることになり、全体としての死亡率は上がるかもしれない。

動物が大群でいるのには、大群でいるだけの理由がある。その理由は種によってさまざまだろうが、天敵とたたかうという観点で言うと、興味深い例を見たことがある。
ある動物ドキュメンタリー番組の一節だったが、おなかをすかせたアシカが魚の大群を追い込み、群れにつっこんでいくのだが、魚の群れ全体が調和をなして急激に方向転換する様子に目がくらみ、結局一匹もつかまえられないまま狩りをあきらめたのだった!あのアシカが!魚を目前にして!
グループが調和を保って行動すると、ハンターは狙いを定めにくいのだという。

つまり、大群は大群でぼーっとしてるのではなく、互いに協力することによって、一個体は利益を得られるのだ。だから群れをつくる動物がいるのだ。彼らは群れを維持するために、いろんな努力をする。その中には互恵的利他主義とよばれる目を見張るやさしさを見せる種もいる。

さて、「大勢でいれば自分が殺される確率が減らせるか」という問いに私なら「YES」とこたえる。これそのものは実は著者の主張と同じなのだが、なぜそう思うのか、の背景にあるものが全く逆なのだ。わたしはあくまでも、「群れる動物は互いになんらかの協力関係にあるからこそ、生存確率を高めることができている」と思っている。著者は、「なぜ群れるのか」の問いに「自分以外の群れの誰かが犠牲になってくれれば自分が助かるから」というこたえをあげているが、これが理由になるのだったら、「別に群れなくても、目立たないようにしていて誰かが犠牲になれば自分は助かる」というこたえもまっとうな理由になる。
極端なことをいうと、もしわたしが、「自分以外の誰かが犠牲になればOK」という考えの持ち主なら、スキを見てとなりにいる人を羽交い締めにして敵に差し出す。しかし考えてみてほしいのだが、そういうことが横行するグループで果たしてそれでも群れでいなければいけない必然性があるのだろうか?虎視眈々と相手をだしぬくことしか頭にない利己的な集団は、危険すぎて集団を形成できない(天敵といっしょに群れを作ってるようなもの!)。単独行動してたほうがマシだ。そう考えると、著者の「群れ」に対する見解は、「なぜ群れるのか」という本質にまったくせまれていないと言える。

 

「擬傷」を進化論で説明する

人間的と感動する一方で、我が身を犠牲にしかねないこうした行動をどう受け止めたらいいのか理解に悩むかもしれません。その際は、こうした例を、「次善の策」と考えるとわかりやすいように思います。自分の遺伝子を残すのがいちばんであるものの、どうしてもそれができないときは近い遺伝子を残し、それすらかなわない時は同種の誰かが生き延びるようにする。

同じく第5章、ここの文章は鳥類に見られる「擬傷」とよばれるおもしろい行動の説明のあとに出てきたものだ。擬傷(ぎしょう)というのは、子育て中の鳥の巣の近くに肉食動物が近寄ってきたときに、親鳥があたかも怪我をしたようなフリをして、肉食動物の興味をひきつけ、巣から十分離れたところにまでおびき寄せてから、さっと逃げてしまうという自然界の一幕の話である。実際にこの習性をもつ鳥がいるのだから驚きだ。。

自分が危険をおかして子どもを守るというヒーローのような行動は、進化生物学者の間でもたしかに問題となっていたようだ。しかし、なぜ、擬傷というすばらしい利他行動の説明のために「次善の策」というアイデアを持ち出すのだろう。もし本当に動物にとって自分の遺伝子を残すのがいちばんなのだったら、自分を守ることが最優先事項となるはずだ。捕食者が近づいてきたときに子どもだけおきざりにしてさっさと逃げてしまったほうがいい。「次善の策」の理屈で考えればそうなる。

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子」を読めば、自然淘汰のメカニズムがそうシンプルではないことがよくわかる。多くの人は、このベストセラーのタイトルだけ見て、「動物は自分の遺伝子のコピーを残すように利己的に行動する」のだと思うかもしれない。それがそうでもないことを懇切丁寧にドーキンスは教えてくれる。もし、自分の遺伝子のコピーを残すことが至上命題なのだったら、有性生殖という仕組み自体がまったく理にかなっていない!!有性生殖(つまりオスとメスが交配してこどもを作るしくみ)で子どもに伝わる遺伝子はたったの50%しかない。それに対して無性生殖では100%。まさに自分のクローンを作り出す生物は自然界にはたくさんいる。ドーキンスはそのことをはっきりと提示した上で、「遺伝子とはなにか?」という深淵な問題に立ち向かっていくわけだ。その後の論理展開は、私が知る中でこの世でもっともおもしろい知の探求のストーリーとなるのだが。。

私はぜひ多くの人に利己的な遺伝子を我慢強く読み解いてほしいと思っているが、その話はここまでにしよう。ここで声高に言っておかなければいけないことは、「遺伝子が利己的であるがゆえに、個体(動物)が利他的になる」という事実である。

「次善の策」という説明はドーキンスの劣化版にすらならないどころか、彼のメッセージをねじ曲げてさえいる。 

 

言葉をしゃべるのは人間だけという固定観念は過去のもの

一方、哺乳類では、発声学習するのは、人間と、イルカクジラの仲間、鯨類のみです

 ここから第6章だが、個々にはおもしろい事例も多いのだが、章全体の方向性がかなり迷走してるように感じる。
鳥類の特筆すべき能力の一つ、発声学習について掘り下げたところで、哺乳類では人間と鯨類しか発声学習しないと主張しているのだが、事例を知らないだけのように思える。
近年、動物がとても豊かな感情、知性を持っていて、豊かにコミュニケーションとっているということが認知されつつある。フランス・ドゥ・ヴァールに代表される学者らの功績によって。そうした背景にあって、人間しか言葉をしゃべらないという動物学者はもういないだろう。いくつもの動物の「言葉」が明らかになりつつある。

私が知るところでは、ベルベットモンキーの警戒音の研究がもっとも有名な、「動物も言葉をもっていること」を証明した研究だ。ベルベットモンキーは、「ヒョウ」、「ヘビ」、「ワシ」といった、タイプ別捕食動物それぞれに対応する警戒音を発していた。誰かが「ヒョウ音」をならすと木に登って避難し、「ワシ音」をならすと空を見上げる、といった具合に。これらの「音」と「自然界の対象物」の結びつきを、遺伝的に生まれもっているというのは考えにくい。実際、こどものベルベットモンキーは大人が発した警戒音に対してしばしば間違った行動をとることがあったという。ということは、どう考えても、ベルベットモンキーは発声を学習している。

人間と鯨類しか持たない発声学習とは、ベルベットモンキーのそれと、本質的に何が異なるのか著者に問いたい。もちろん程度の差があることはわかるが。

 

性淘汰で進化した鳥とヒト?

哺乳類には理解しがたい鳥類の選択

人間だけが理解できた鳥類の選択

一般的な哺乳類では、それが好きか嫌いかなどを考えたりしないような対象や状態に、人間や鳥は引っかかり、「好きか嫌いか」「これとこれならどちらがいいか」と判断する心を持っていました。

 同じく6章のタイトルや文中からの引用で、あたかも人間と鳥類だけが審美眼を持っていて、それ以外の哺乳類は持っていないと言いたいそうな謎の自信である。人間以外の哺乳類をそこまで軽視するのはなぜなのか。

おそらく著者は、次で説明するように、性淘汰という原理が、鳥類と人類にだけはたらいていると思っているのかもしれない。

しかし、鳥が鮮やかである理由の全てを性淘汰で説明することはできません。なぜなら、インコやハチドリなど、熱帯や亜熱帯に生息する鳥を中心に、オス・メスともに派手な羽毛をしているものが数多くいるからです。

 前の引用にも関連して、ここでテーマとなるのは、鳥類の「性淘汰」についてである。性淘汰について簡単に説明すると、
ある動物グループのメスの多くが何らかの理由で、尾が長いオスを好むようになったとする。すると、「尾が長いオス」が子孫を残しやすくなる。彼らの子孫は遺伝的に「尾が長い」であったり、「尾が長いことを好む」傾向が出てきて、一気に進化のポジティブ・フィードバックがはたらき、メスの好みによって形質の進化がおこるという理論である。

ダーウィンが、クジャクの羽根の進化をなんとか説明するために、やむなしで生み出したのが性淘汰理論のはじまりだったが、ダーウィンの死後、長らく進化生物学の表舞台からは消えていた。ところが近年、性淘汰の理論的可能性が検討されはじめたり、それがはたらいたとしか思えないような事実が見つかったこともあって、私も内心、性淘汰は進化論のかなり大きな部分を占めているメカニズムだと思うようになった。特に鳥類の進化においては、性淘汰ぬきには語れそうにない。本書の著者もそう思ってるだろう。

だが、著者は「性的二型(つまり、オスとメスの見た目が著しく異なること)をもつ種だけが、性淘汰の影響下にある」と思っている点が私の考えと異なる。前述の性淘汰の原則に沿って考えれば、メスのオスへの好みが「自分自身の外見と著しく異なっていること」である必要はないように思える。逆に、「自分の外見となるべく同じような異性を好きになる」性淘汰もあるだろう。ゴリラ / チンパンジー / ヒトの順に、性的二型が緩和されていく流れも、性淘汰の範疇にある気がしている。これはとりわけ、オスとメスが協力して子育てをしなければいけない、といった事情と関係しているかもしれない。

鳥類と人類にだけピンポイントに性淘汰がはたらいている、そしてそれは彼らだけが審美眼を持っていたからだ、という主張は、演繹的すぎてバイアスにまみれている。マンドリルの顔やおしりがあれほどまでに鮮やかなのはどう説明するつもりなのか?

 

脳のサイズやしわで知性を判断できるか?

鳥が、本来よりもずっと低く見られてきたのは、人間の矜持から来る、ある種のおごりと、人間基準の物差しだけで鳥を評価してきたことが大きく影響しています。自身を万物の霊長と呼び

鳥の知性にせまる第7章。
この引用では、その前段で、鳥の知性がかつて非常に軽視されていたという嘆きにつづいている。鳥を解剖したところ、しわのない脳が出てきたことから、哺乳類脳ばかりを見てきた従来の学者は「取るに足らない知性の持ち主」と判断したらしい。それについて、これは人間のおごりだとして、強くいましめるメッセージが続くのだが、この著者は過去の人間の失敗を自分のこととして捉えて、次に自分がどういう立場をとるべきか熟考していないように思う。

典型的な例として、「脳のしわの数で知性を判断するな!」という厳しい叱咤の直後に、あろうことか動物ごとの脳のサイズの比べっこをしていて、グラフまでのせている。あたかも、「鳥類は脳のサイズが大きいから哺乳類よりも頭がいい」と言わんばかりの。「体重に対する脳重量の比率で知性がわかる」という主張は、「脳のしわの数を見て知性がわかる」と言ってるのと大差ない(たしかな根拠がない限りは)。そんなものの妥当性は、近い将来の研究で棄却されることは私の目には見えてる。

 

動物は人生を楽しむか?

鳥のさえずりは伴侶を得るためか、縄張りの主張のためのもの。とにかく声を出し続けることに必死で、楽しむ余裕などないからです。多くの鳥は、人間のように歌うことを楽しんだり、自分の歌声に酔う事は基本的にしないと考えてください。

鳥の心について言及する第8章。
ここでもとくになんの根拠も示さず、「鳥は楽しんだりしない」と断言的に書いているのだが、これによって読者になにを伝えたいのか理解に苦しむ。(実際、鳥たちが楽しんでるようにしか思えない事例をいくつも著者自身が本書で提示している。)

ライオン、トラ、キツネなどの赤ちゃんが、兄弟たちと四六時中狩りごっこをしてるのをドキュメンタリー番組でよく見るが、私には楽しそうやなーという感想以外のものが出てこない。狩りごっこが楽しくてしかたないんだろう。

ゴクラクチョウ科の鳥には誰も見てないのにダンスを踊るものがいる。求愛の練習をしてるにしても、ひとりで楽しくなっちゃってるんじゃないだろうか。下手すると求愛相手のことを想像してウキウキしてさえいるかも。

これらの例は憶測にすぎないにしても、昨今の動物心理研究の動向を見れば、あきらかに動物が心をもっているとしか思えないような事例が次々と見つかる流れにある。動物の心や知性をテーマにしたまとめ本として超絶おすすめできるのは、「数をかぞえるクマ、サーフィンするヤギ」だ。写真もたくさんのっていて最高にいやされる。

わたしたちが、「おいしい」と思うから「食べる」ように、「楽しい」と思うから「遊ぶ」し、「練習する」。これと同じメカニズムが人間にあって、動物にはないという考えはあまりにもナンセンスで、進化論を否定しないかぎりそんな結論は出せようがない。

進化論の説明をする際に非常に重要な要素として、「動機の独立性」があるとドゥ・ヴァールも言っている。動機の独立性とは、たとえばカエルは求愛のためにケロケロなくが、彼らはその行動の目的を「求愛のため」だと意識している必要はないということだ。そうではなく、ただ単に「楽しいから鳴く」のであっても、結果的にそれがメスを惹き付けるのであれば、自然淘汰はそういう形質を維持するように作用する。
藤井聡太は今将棋界をにぎわす人気者となったが、彼はモテたいから将棋を始めたのか?結果的に大人気ものになったとはいえ、当初の動機はそうではないだろう。
この議論は、今後ますますどうぶつたちの人っぽさがわかるようになるうえでも、重要な位置をしめることになると思う。以前、ブタの子どもを育てるトラが話題となった。進化論的に考えればきわめておかしな行動だ。獲物となるはずのブタを獲物とせず、自らの莫大なエネルギーをかれらのために費やすのだから。こういった行動も、動機の独立性を考えればおかしなことではない。私たちを含め動物は、自分が産んだこどもだけをかわいがるように厳密にプログラムされているわけではない。そしてそうあることこそが、多様性の源となる。

 

文明へと向かう動物

鳥は文明をのぞまない

鳥を含む人間以外の動物は、ほどほどで満足しました。でも、人間は満足せず、さらに楽や便利の先を求めた。

最後に、道具をつかう鳥類の行動に言及した直後の謎の断言。

動物が道具を使っていることがわかっている時点で、文明をのぞんでいる、文明へと向かう途上にいるという発想はできないのだろうか。キツツキフィンチ、カラス、シャカイハタオリ、ツカツクリ、...などといった鳥類はあきらかに、延長された表現型として、自然を克服しようとする一歩目を踏み出している。それが分かっていないことこそ、人間中心の思考からはなたれていないことの証左のように私には思える。

 

さいごに

いろいろと書いたあとでこういうのもなんだが、それでも本書はおすすめできる。客観的に書かれている箇所はかなりおもしろいので。

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 
数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ―動物の知性と感情をめぐる驚くべき物語

数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ―動物の知性と感情をめぐる驚くべき物語

 

*1:Williams, T. C.; Ireland, L. C.; Williams, J. M. (1973). "High Altitude Flights of the Free-Tailed Bat, Tadarida brasiliensis, Observed with Radar". Journal of Mammalogy. 54 (4): 807.