宇宙スープ

Once upon a time, the Universe expanded from an extremely dense and hot soup

狂犬病がもたらした知見、強固な記憶はいかに作られるか

  狂犬病は、もっとも致死率の高い病気としてギネスに登録されている。発症後に助かった記録は歴史上数えるほどしかないというおそろしい病気だが、罹患後の典型的な症状として興味深いものがある。「水」や「風」などのなんということもない刺激をおそれるようになるのだという。かとおもえば、凶暴化して、かみつくようになったりと、狂ってしまったかのような印象を与える。

実際に狂犬病ウイルスは脳を蝕む。このときの脳の炎症が「情動(原始的な感情)」に損傷をあたえているのではないか、と考えた学者がいた。意味もないことに怒り、意味もないことに恐怖をかんじるというのは情動に異常があると言えそうな状況だ。

情動系神経回路 - 脳科学辞典

アメリカの神経科学者ジェームズ・パペッツは、狂犬病にかかった人の脳を詳しく調べ、それらが、視床帯状回、海馬などにダメージを与えていることをつきとめた。そしてこの一連の脳作用が情動をうみだすエンジンとなっているのではないかと仮説をたてた。のちにここに扁桃体が加えられるなど改善され、大脳辺縁系と名付けられる。

そしてこの回路は、情動に関係するだけでなく、のちにエピソード記憶の形成にも大きな役割を果たしていることがわかってきた。情動と記憶は、脳の構造によってきってもきりはなせない関係にある。PTSD、トラウマなどがそうであるように、つよい情動に起因して、鮮烈な記憶が残るという仕組みがおそらくここにある。

ゾンビでわかる神経科学

ゾンビでわかる神経科学

 

 ここで、「カラスの科学」で紹介されていた興味深い例を紹介したい。

ノーベル賞受賞者で、動物愛護の巨匠としても知られる動物行動学者のコンラート・ローレンツには、めんどうを見ていたとあるカラスがいた。このカラスは長いこと行方不明になったのちローレンツのもとに戻ってきて、彼に向かってドイツ語でこうしゃべったという。

「すっげえ罠でやつをつかまえてやった!」

カラスが人間の言葉をしゃべるのか、ということに疑問をもった人は、「カラスの科学」でも、その他多くの本でも事例が紹介されているので、確認してみてほしい。もしかしたらYouTubeにもカラスがしゃべる動画があるかもしれない。オウム、インコ、キュウカンチョウをイメージすれば、驚くことではないか。

しかし私が驚いたのは、このカラスは行方不明のあいだおそらく人間につかまっていたという点にある。だとすると、このカラスは驚くほど文脈をとらえた発言をしている!まるで自虐ネタか、ブラックジョークのようにもきこえてくる。カラスが人間の言葉をまねできるのはわかるとしても、言葉の意味を理解しているとしたら大変なことだ!

よくよく読んでいくと、このカラスは自分をつかまえた人間が、そのときしゃべっていた内容をまねしているのだということがわかった。カラスは人間につかまるという、恐ろしい体験の下で、人間が発したなにげない言葉を一瞬で、実に正確に、そして鮮明に記憶したということだ。

世界一賢い鳥、カラスの科学

世界一賢い鳥、カラスの科学

 

 鳥類と哺乳類は生命の進化樹にあてはめるとかなり遠い距離にあり、脳の構造は互いに異なる部分も多いものの、情動と記憶が密接にかかわるということは共通しているようだ。脊椎動物になってからすでに手にした性質なのかもしれないし、もしかすると、収斂進化しているという可能性もあるかもしれない。恐怖などの情動をつくりだすこと、そしてそれを状況記憶とむすびつけることが、生存競争下で非常に重要だったのだろう。

わたしはといえば、特定の音楽をきいたり、においをかいだりすると、過去その刺激にあったときの記憶がばっとよみがえることがある。たいていそのような記憶は、すごく嫌な時期だったり、不安をかかえていたり、悲しい時期だったことが多い。
ある人が亡くなる直前、よくお見舞いにかよっていた道中でよく聴いていた曲は、明るく愉快な曲にもかかわらず、いまだにその曲を聴くと泣いてしまうことがある。